「36協定」本当の落とし穴—社労士が現場で遭遇した意外な盲点

最終更新日 2025年6月14日 by rostea

深夜のオフィス、静まり返ったフロアに、あなたのキーボードの音だけが響いている。
そんな経験はありませんか。

多くの会社では、年に一度、当たり前のように「36協定(サブロクきょうてい)」の書類が回ってきます。
「ああ、またこの季節か」と、慣れた手つきでサインや捺印をし、労働基準監督署へ提出する。
その一枚の紙が、どれほど重い意味を持つのか、本当の意味で理解している人は意外と少ないのかもしれません。

私は社労士として、数多くの「現場」を見てきました。
神戸の鉄工所で生まれ育ち、大企業の人事を経て独立した今も、大切にしているのは“現場の音温度”です。
それは、タイムカードの打刻音、休憩所の椅子の軋み、社員たちのひそかな溜息。
そうした法律の条文には書かれていない生身の言葉にこそ、労務リスクの本質が隠されています。

36協定は、単なるサインひとつの手続きではありません。
それは、会社と社員のあいだで交わされる、時間と健康に関する極めて重要な「約束」です。
今回は、その約束に潜む、多くの人が見落としがちな「本当の落とし穴」について、私が現場で遭遇した事例を交えながらお話ししていきましょう。

36協定の基本を物語でおさらい

まず、基本からおさらいしておきましょうか。
法律の話は眠くなる、という方もご安心ください。
少し物語仕立てでお話しします。

そもそも36協定とは何を約束する紙か

ある会社に、「定時」という名前の、とても真面目なルールがありました。
このルールは、国の法律で「1日に8時間、1週間に40時間までしか働かせちゃいけないよ」と決められています。
これを「法定労働時間」といいます。

しかし、仕事にはどうしても繁忙期がありますよね。
そこで会社は、社員たちに「申し訳ないが、少しだけ定時を超えて働いてもらえないだろうか」とお願いする必要が出てきます。
この「お願い」を公式な約束事にするための書類が、労働基準法第36条に定められていることから、「36協定」と呼ばれているのです。

つまり36協定とは、「法定労働時間を超えて仕事をしてもらうこと」そして「法律で定められた休日に仕事をしてもらうこと」について、会社と労働者の代表とが交わす“事前の約束手形”のようなもの、と考えてもらうと分かりやすいかもしれませんね。

よくある誤解:残業上限=「青天井」の神話

ここでひとつ、非常に多い誤解があります。
「36協定さえ結んでおけば、いくらでも残業させられる」というものです。
これは完全な神話であり、危険な錯覚です。

国は、働きすぎを防ぐために、この約束手形にも厳しい上限を設けています。

原則として、残業時間は月45時間・年360時間まで。

これが絶対に越えてはならない第一の壁です。
「いやいや、うちはもっと緊急事態がある」という会社のために、「特別条項」という裏道も用意されていますが、これも決して万能ではありません。

  • 時間外労働は年720時間以内
  • 時間外労働と休日労働の合計が月100時間未満
  • 時間外労働と休日労働の合計について、「2ヶ月平均」「3ヶ月平均」「4ヶ月平均」「5ヶ月平均」「6ヶ月平均」が全て1月あたり80時間以内
  • 時間外労働が月45時間を超えることができるのは、年間6ヶ月が限度

このように、幾重にもロックがかけられています。
「36協定は残業の免罪符」ではなく、あくまで「やむを得ない場合の例外的な約束」である。
この原点を忘れてはいけません。

判例が語る「合意の落とし穴」

過去の裁判例を紐解くと、この「合意」そのものが問われるケースが後を絶ちません。
例えば、会社側が一方的に協定書を作成し、社員に説明なくサインだけを集めていた。
あるいは、労働者代表の選出方法が不適切だった。

このような場合、たとえ書類が監督署に受理されていても、裁判所は「そもそも合意が有効に成立していない」と判断することがあります。
そうなれば、協定は無効。
上限を超えた残業はすべて違法となり、会社は深刻なダメージを負うことになるのです。
形だけの合意では、いざという時に会社を守ってはくれないのですね。

現場で潜んでいた意外な盲点

さて、ここからが本題です。
教科書的な知識だけでは見えてこない、私が現場で実際に遭遇した「意外な盲点」を3つご紹介しましょう。
あなたの会社は大丈夫か、ぜひチェックしてみてください。

「誰がサインした?」—権限者不在の協定書

ある中小のIT企業でのことです。
毎年、総務部のAさんが労働者代表として36協定に署名していました。
Aさんは人望も厚く、誰も疑問に思っていませんでした。

しかし、あるトラブルがきっかけで詳しく調べてみると、Aさんは一度も社員から代表として信任を得たことがなかったのです。
社長から「今年も頼むな」と言われ、なんとなく引き受けていただけでした。
これは、労働者の過半数代表者を民主的な手続き(投票や挙手など)で選出する、という大原則が守られていない典型例です。

このような協定は、法的には無効です。
善意でやっていたとしても、いざという時に「権限のない者がサインした紙」と判断されかねません。
あなたの会社の代表者は、本当に正しく選ばれていますか?

「フレックスだから大丈夫」—時間管理の錯覚

「うちはフレックスタイム制を導入しているから、残業時間の管理は個人の裁量に任せている」
これは、あるデザイン事務所の役員が口にした言葉です。
一見、自由で進んだ働き方に見えますが、ここにも落とし穴があります。

フレックスタイム制は、始業と終業の時間を自由に決められる制度ですが、時間外労働がなくなるわけではありません。
1ヶ月などの「清算期間」で実労働時間を集計し、法定労働時間の総枠を超えた分は、きっちり時間外労働としてカウントし、割増賃金を支払う義務があります。

この事務所では、デザイナーたちが深夜まで働くのが常態化していましたが、誰も「残業」という意識を持っていませんでした。
結果として、未払い残業代が雪だるま式に膨れ上がっていたのです。
制度の導入=管理の放棄、ではないことを肝に銘じるべきでしょう。

「特別条項」を活かすも殺すも月次面談次第

特別条項付きの36協定を結んでいる企業は多いでしょう。
しかし、その条項を発動させる際に、セットで考えなければならない健康確保措置を見落としていませんか。

見落とされがちな“医師の面接指導ライン”

法律は、特に長時間労働になった社員を守るため、具体的なアクションを会社に求めています。
その一つが、医師による面接指導です。

1. 時間外・休日労働が月80時間を超えた
2. かつ、労働者本人から申出があった

この2つの条件が揃った場合、会社は医師による面接指導を実施する義務があります。
「努力義務」ではなく、やらなければならない「義務」なのです。
「忙しいだろうから、本人から言ってくるまで待とう」では通用しません。
月次の労働時間を確認し、対象者が出た場合は会社から積極的に面談を促す仕組みづくりが不可欠です。
この一手間が、最悪の事態を防ぐ防波堤になるかもしれませんね。

ケーススタディ:深夜の工場ラインで起きたこと

私が駆け出しの社労士だった頃、忘れられない案件があります。
横浜郊外にある、部品加工の工場でした。
相談は「労基署の調査が入ることになったので、立ち会ってほしい」というもの。

タイムカードが示した“止まらない旋盤”

事務所で社長から見せられたタイムカードは、一見すると問題ありませんでした。
残業時間は、特別条項の範囲内にきれいに収まっています。
しかし、私の育った鉄工所の記憶が、何か違和感を訴えかけていました。
「社長、少しだけ現場を見せていただけませんか」

工場の扉を開けた瞬間、オイルの匂いと金属の熱気が肌を打ちました。
そして、何人かの従業員の顔に、拭いきれない疲労の色が浮かんでいるのを見て、確信しました。
彼らの動きは緩慢で、目の焦点が合っていないようにさえ見えたのです。
タイムカードの数字と、現場の“音温度”が、まったく合っていない。

労基署が着目した休憩所の椅子の高さ

調査当日、監督官は書類を一通り確認した後、私と同じように「現場を」と言いました。
彼は、工場のラインを一巡りした後、隅にある薄暗い休憩所に向かいました。
そして、パイプ椅子が数脚あるだけのその場所で、こう尋ねたのです。
「みなさん、ここでちゃんと休憩は取れていますか?」

監督官が着目したのは、タイムカードに記録された休憩時間と、実態との乖離でした。
この工場では、休憩時間中もトラブルがあればすぐにラインに戻らなければならず、事実上、気の休まる時間はありませんでした。
休憩所の椅子の高さがバラバラで、落ち着かない空間だったことも、それを物語っていました。
休憩が実質的に取れていない時間は、労働時間とみなされる
これが監督官の見解でした。

白石が現場で翻訳した「嘆き」と「条文」

調査の後、私は社長に伝えました。
「タイムカードの数字は、社員たちの本当の仕事量を表していません。彼らの疲れた表情が、法律でいうところの“労働時間”そのものです」と。
現場の社員たちが発していた無言の「嘆き」を、労働基準法という「条文」に翻訳して伝える。
それが私の仕事でした。

この一件で、会社は労働時間の管理方法を根本から見直すことになりました。
見せかけの書類ではなく、働く人間の「心と体の健康」という視点で労務を捉え直す、大きなきっかけになったのです。

若手人事が明日からできる処方箋

さて、ここまで読んでくださった若手人事担当者のあなたへ。
不安にさせることばかり言ってしまったかもしれません。
しかし、悲観する必要はありません。
明日からできることは、たくさんあります。

協定更新前に「現場ツアー」を組む

36協定の更新時期が近づいたら、まず自分の足で現場を歩いてみてください。
ただ漫然と歩くのではありません。
「社員の表情はどうか」「休憩はきちんと取れているか」「掲示物は古いまま放置されていないか」といった視点を持って観察するのです。
現場の空気を感じることが、書類の数字だけでは見えないリスクを発見する第一歩です。

3つのチェックリストで盲点を塞ぐ

協定を締結する前に、最低でも以下の3点は必ず確認してください。
これが、あなたの会社を未来のリスクから守ります。

  • チェックリスト
    • [ ] 代表者の選出プロセスは民主的か? (投票や挙手など、選出された経緯を記録に残す)
    • [ ] 労働時間の実態を把握できているか? (PCログや入退館記録とタイムカードに大きな乖離はないか)
    • [ ] 健康確保の仕組みは機能しているか? (月80時間超の残業者を把握し、面談を促すフローがあるか)

もちろん、これらのチェックリストを確認しても、自社だけで判断するのは難しい、と感じる場面もあるでしょう。
特に、労働者代表の選出方法の妥当性や、複雑な給与計算が絡む時間外労働の解釈など、専門的な知見が求められるケースは少なくありません。

そうした際は、決して一人で抱え込まず、信頼できる専門家に相談することが、結果的に会社を守る最善の一手となります。
例えば、給与計算や労務管理に強みを持つ杉並区の社労士事務所のように、地域に根ざし、企業の状況に合わせた的確なアドバイスをくれる専門家もいますので、一度相談してみるのも良いかもしれませんね。

経営者への提案書を“物語化”するコツ

「法律で決まっていますから」
これだけでは、経営者は動きません。
彼らが聞きたいのは、それが会社にとってどんなメリット(あるいはデメリット)をもたらすのか、というストーリーです。

例えば、労働時間管理の改善を提案するなら、こう話してみてはどうでしょう。
「先日、現場を回ったのですが、Aさんが少し疲れた顔をしていました。彼の高い技術力は、会社の宝です。彼が最高のパフォーマンスを維持できるよう、労働環境を少し見直しませんか。これはコストではなく、未来の利益を守るための投資です」
事実を、感情と結びつけて語る
これが、人を動かすコツかもしれませんね。

まとめ

私の書斎には、故・佐々淳行氏の「最悪を想定し、最善で応じる」という言葉が貼ってあります。
36協定の運用も、まさにこれに尽きるのではないでしょうか。

書類上は問題ない、今までも大丈夫だった。
その「正常性バイアス」が、最も危険な落とし穴です。
労働者が倒れてしまう、労基署の調査が入る、多額の未払い残業代を請求される。
そうした最悪の事態を常に想定し、その上で、社員が健康でいきいきと働ける「最善」の環境をどう作るか。

36協定は、そのための重要な羅針盤です。
ただの紙切れとして扱うのか、それとも会社と社員の未来を守る「生きた約束」として扱うのか。
すべては、あなたの意識ひとつにかかっています。

条文に血を通わせ、働く人の“人間ドラマ”に寄り添う。
その大切な役割を担うのは、この記事を読んでくださっている、あなたかもしれませんね。